扁桃体の花言葉。

「普段何されてるんですか?」「伏線の回収をしてます。」 「⋯⋯お休みの日は何を?」「伏線の回」ブログ。#拡散希望です。

自分の背中を直接見ることができない。自分の顔を直接見ることはできない。

ジョハリの窓”という心理学用語があります。

自己理解において、人には4つの窓がある、という理論です。

 

①自分も他人も知っている自分。

②自分は知っているが、他人は知らない自分。

③自分は知らないが、他人は知っている自分。

④自分も他人も知らない自分。 

 

「自分のことを棚に上げて」という慣用句があります。言い方を変えれば、「おこがましい」。世界と関わる時のフィルターがそれだけなのであれば、「⋯なんも言えん。」w。でも、なんかうまくいかない。なんかいまのままじゃよくない希ガス⋯そう、やっとうすうす思えた時に人は、別の見方をすることを自分で自分に許します。例えばこのジョハリの窓がなんか気になる。自分に味方ができたわけでも自分が強くなったわけでもない。だまされたと思って“やってみる”。あるいはそれが一番難しいことだったりします。“信じてやってみる”ことはとってもこわい。ですがそれは「このままじゃいやだ」と思えたということであり、自分で自分を閉じ込めている“だけなのかもしれない”檻をぶち破るチャンスにほかなりません。そもそも最初から「自分が間違ってるかも」と自覚することに関して人はそんなに反発しません。自分がなんか言われて「怒っちゃった」とか「恥ずかしかった」とか「軽んじられた」とか思った時はチャンスです。そもそも反発するほど自信を持っていることなら、やってみてやっぱ違うじゃねーか!となったらもとの自分の得意なやり方にただ戻ればいいだけです。正当性も示せて一石二鳥であります。

 

人は肯定されるべき生き物です。自分のやり方を否定されることは、自分自身を否定されるのとおんなじです。それを経験してこなかった人はいません。ですから棚に上げて言うほうも、わりと気が気ではないでしょう。そこには責任も生じます。それもまだいいほうで、ただ嫌われて終わりなんてことのほうがむしろ多かったりする。そこを越えさせるのは、利他の心、愛情にほかなりません。

 

当たり前のこと書いた気がする。恥ずかしいw

言いたいのは、その見極めです。壁面通りに信じてしまいがちの発達障害者です。相手が、1ミリもその人自身のためでない、自分のためだけに言っていると感じた時。そういう時の、人の言葉を信じたい。リアルだと我々はそれを見誤りがちであるwでも、その善意しかない言葉は必ず心に残ります。幸運にもそんな人が周りにいる。そのことの奇跡を自覚できるのであれば、“ググる”ことはその外堀を埋める行為でしかないと意識することを忘れないようにしたいです。正解か不正解かということよりもはるかに得難いものを、私は既に持っているからです。それは私が正しいとか正しくないとか、性格いいからとかわるいからとか、ましてやがんばったからとかは全く関係のない次元のことであります。ただ運がよかっただけ。それは有難く受け取れる自分でありたい。何度も言いますがそれが一番難しいw自戒。

 

ありがとうございました!