扁桃体の花言葉。

「普段何されてるんですか?」「伏線の回収をしてます。」 「⋯⋯お休みの日は何を?」「伏線の回」ブログ。#拡散希望です。

「べき」と「したい」

人は日々「べき」に追われている。疲弊している。少なくとも私はそう感じる。仕事なんか全部「べき」だろう。

 

「君の話は聞いた。だから、私の話も聞いて。」

 

そう言う人がいる。おそらくほとんど聞いてきてもらえなかったのだろう。きっとこうではないか。

 

「君の話は聞いた。なのに、何故私の話は聞かない?

 

何故か?

 

「話すこと」は往々にして、「べき」の類ではないからだ。それは、「したい」に分類されるものだ。

 

人は日々「べき」に追われている。「べき」とは往々にして、「したくない」ことだ。「べき」以外のところで人は、「したい」をしたい。ぶっちゃけずっと「したい」をしていたい。

 

だがそうすると弊害が生まれるのも、肌身に感じるほど知っているはずだ。

行く「べき」仕事をサボったとする。「べき」ではなくサボり「たい」を優先した。「したい」は楽しいのだ。次の日もサボる。「べき」なんか「したくない」。わがままを通した。正当化もしたかもしれない。なんでもいいが結局、「したい」を優先し続けた。するとどんどん「べき」が「したくなくなっていく」。

 

「べき」ところで、「したい」をしてしまうと、人はだめになっていく。

 

仕事中に仕事以外のことをしようとすると逆に苦しくなっていく、という経験は皆さんもあるのではないでしょうか。

私なんか、ちょっとサボってゲームなんかやりでもしたらそりゃもうとめどなくなり、ゲームを阻むものに憎しみすら覚えるようになりますw 隙を見ては「ゲームしてえ!ゲームしてえ!」。これめちゃつらいw だから仕事中は仕事のことだけやるのが一番ラクなのです。

 

ゲーム「したい」。

「べき」はすべきときに。「したい」もすべきときに。

これが苦しくならない秘訣なのだー! 人は、というか特に発達障害者である私なぞは、そんなのはっきりくっきり区別できるほど器用じゃねえ! 「このくらいいいか。」がわかったら苦労しねえ!w

 

話を戻します。

 

「君の話は聞いた。だから、私の話も聞いて。」

 

そんな言葉はこの世に無い!w

話をすることは、「べき」じゃねえ。「人と、人との、話」に於ける、「べき」の適用時は、所謂「報連相」の時だけじゃないでしょーか。

だからそれは単に「したい」の範疇で、

 

「私の話を聞いて。」

 

だけなんじゃなかろうか。

話すこと。そこに「べき」を持ってこられると人はかなしくもなるかもしれない。

よく言うけどだいたいの人は「話したい」。稀の「聞きたい」だって「自分のため」。わたしのために、「してほしい」。「聞いて!聞いて!」。「聞きたい!聞きたい!」「聞かないと。」「話さないと。」疲弊する。

 

だから酒逢知己千杯少。知己朋友。気の置けない友だちって、最高に幸せだと思います。自分がわがまま言ってるのわかってる。「聞いてくれてありがとう」。わがままなわたし。本当は「したい!したい!」のわたし。わたしを受け入れてくれてありがとう。こんな嬉しいことはない。奇跡的なことはない。だから私も相手の「したい」を知り「たい」。相手の「したい」を「したい」。

「したい」→「ありがとう」→「したい」→「ありがとう」の応酬。人と人。けど、いや、だから、

 

その「したい」が合致したら「ありがとう」も合致する。それが「気が合う」、「馬が合う」ってことだと思う。めっちゃ幸せだよなそれ。

 

ですから皆様〜!ちゃんと「したい」のときに、ちゃんと「したい」をしませう!!じゃないとちゃんと「べき」もできなくなる。

「したい」は絶対なくならない。それは、人は、どうしてもいつか死ぬべき人は、

生きるべき、じゃなくて、生きたい、と思って生きたい、から。だと、俺は思う。

 

 

最近「したい」しかほぼやってない私。う◯こ、まじめんどい。そろそろ「べき」がしてえ〜w

ありがとうございました!