人は日々「べき」に追われている。疲弊している。少なくとも私はそう感じる。仕事なんか全部「べき」だろう。
「君の話は聞いた。だから、私の話も聞いて。」
そう言う人がいる。おそらくほとんど聞いてきてもらえなかったのだろう。きっとこうではないか。
「君の話は聞いた。なのに、何故私の話は聞かない?」
何故か?
「話すこと」は往々にして、「べき」の類ではないからだ。それは、「したい」に分類されるものだ。
人は日々「べき」に追われている。「べき」とは往々にして、「したくない」ことだ。「べき」以外のところで人は、「したい」をしたい。ぶっちゃけずっと「したい」をしていたい。
だがそうすると弊害が生まれるのも、肌身に感じるほど知っているはずだ。
行く「べき」仕事をサボったとする。「べき」ではなくサボり「たい」を優先した。「したい」は楽しいのだ。次の日もサボる。「べき」なんか「したくない」。わがままを通した。正当化もしたかもしれない。なんでもいいが結局、「したい」を優先し続けた。するとどんどん「べき」が「したくなくなっていく」。
「べき」ところで、「したい」をしてしまうと、人はだめになっていく。
仕事中に仕事以外のことをしようとすると逆に苦しくなっていく、という経験は皆さんもあるのではないでしょうか。
私なんか、ちょっとサボってゲームなんかやりでもしたらそりゃもうとめどなくなり、ゲームを阻むものに憎しみすら覚えるようになりますw 隙を見ては「ゲームしてえ!ゲームしてえ!」。これめちゃつらいw だから仕事中は仕事のことだけやるのが一番ラクなのです。
ゲーム「したい」。
「べき」はすべきときに。「したい」もすべきときに。
これが苦しくならない秘訣なのだー! 人は、というか特に発達障害者である私なぞは、そんなのはっきりくっきり区別できるほど器用じゃねえ! 「このくらいいいか。」がわかったら苦労しねえ!w
話を戻します。
「君の話は聞いた。だから、私の話も聞いて。」
そんな言葉はこの世に無い!w
話をすることは、「べき」じゃねえ。「人と、人との、話」に於ける、「べき」の適用時は、所謂「報連相」の時だけじゃないでしょーか。
だからそれは単に「したい」の範疇で、
「私の話を聞いて。」
だけなんじゃなかろうか。
話すこと。そこに「べき」を持ってこられると人はかなしくもなるかもしれない。
よく言うけどだいたいの人は「話したい」。稀の「聞きたい」だって「自分のため」。わたしのために、「してほしい」。「聞いて!聞いて!」。「聞きたい!聞きたい!」「聞かないと。」「話さないと。」疲弊する。
だから酒逢知己千杯少。知己朋友。気の置けない友だちって、最高に幸せだと思います。自分がわがまま言ってるのわかってる。「聞いてくれてありがとう」。わがままなわたし。本当は「したい!したい!」のわたし。わたしを受け入れてくれてありがとう。こんな嬉しいことはない。奇跡的なことはない。だから私も相手の「したい」を知り「たい」。相手の「したい」を「したい」。
「したい」→「ありがとう」→「したい」→「ありがとう」の応酬。人と人。けど、いや、だから、
その「したい」が合致したら「ありがとう」も合致する。それが「気が合う」、「馬が合う」ってことだと思う。めっちゃ幸せだよなそれ。
ですから皆様〜!ちゃんと「したい」のときに、ちゃんと「したい」をしませう!!じゃないとちゃんと「べき」もできなくなる。
「したい」は絶対なくならない。それは、人は、どうしてもいつか死ぬべき人は、
生きるべき、じゃなくて、生きたい、と思って生きたい、から。だと、俺は思う。
最近「したい」しかほぼやってない私。う◯こ、まじめんどい。そろそろ「べき」がしてえ〜w
ありがとうございました!